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大阪地方裁判所 昭和44年(ワ)2717号 判決 1976年5月12日

大阪府池田市荘園一丁目五―一三

原告 室沢武

右法定代理人親権者

父 室沢昭

母 室沢和子

<ほか二名>

右原告三名訴訟代理人弁護士 通山健治

同 甲斐庸生

同 大槻龍馬

同 谷村和治

東京都港区三田一丁目四番三六号

被告 社会福祉法人恩賜財団済生会

右代表者理事 谷口幸三

右訴訟代理人弁護士 林藤之輔

同 中山晴久

同 石井通洋

同 川井信明

右石井通洋復代理人弁護士 高坂敬三

右林藤之輔復代理人弁護士 夏住要一郎

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告室沢武に対し金二、二四二万九、九二〇円と内金二〇〇万円に対する昭和四四年六月一七日から、内金二、〇四二万九、九二〇円に対する昭和四九年六月二〇日から各完済に至るまで年五分の割合による金員、原告室沢昭、同室沢和子に対しそれぞれ金三一五万円と内金三〇〇万円に対する昭和四四年六月一七日から、内金一五万円に対する昭和四九年六月二〇日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  本件医療事故の発生

(一) 当事者

被告は社会福祉法人であり、その事業の一環として大阪市において小児科、眼科その他の診療科目を有する済生会中津病院(以下被告病院という)を経営し、小児科医師阿部菅夫(以下阿部医師という)や眼科医師らを使用して診療にあたらせている。

原告室沢武(以下原告武という)は、原告室沢昭(以下原告昭という)、原告室沢和子(以下原告和子という)の長男である。

(二) 原告武が失明に至った経過

(1) 原告武は、昭和四二年八月一七日豊中市庄内の垣田産婦人科医院において出生したが、在胎八ヶ月のいわゆる未熟児であったため同日被告病院小児科未熟児室へ入院し、直ちに保育器へ収容され以後被告病院小児科の阿部医師の担当の下に看護保育されることになった。

阿部医師は、原告武を保育器へ収容した昭和四二年八月一七日より同年九月二五日迄は毎分一・五リットル、翌二六日より同年一〇月一〇日迄は毎分一リットルの流量の酸素を右保育器内へ供給した。(尤も、右期間中右保育器内へもう一人の未熟児が原告武と共に収容されていたため、酸素消費量の増加に対処すべく右以上の量の酸素が供給された可能性もある。)

原告武は、入院後同年一〇月一〇日迄保育器内で順調な発育を続け、翌一一日未熟児室から新生児室へ移され、同月三〇日被告病院を退院し、その後も毎月一度阿部医師の定期検診を受け経過良好と診断されていた。

(2) ところが、原告昭、同和子は、昭和四二年一二月末頃より原告武が未だ目が見える様子のないことに不安を抱くようになり、度々阿部医師に視力の特別検査を依頼したが、同医師は、未熟児であるから発育が遅れ目が見えるのも遅いが心配はいらないと述べ、全く取り上げなかった。

このため原告武は、昭和四三年三月一日豊中市内の眼科医師木田幸男の診察を受けたところ既に失明していると診断され、更に大阪大学医学部付属病院眼科医師花垣尚子外数名の眼科医師の診察を受けたが、同様に失明しているとの診断がなされた。

2  失明の原因

原告武は、保育器内で成育中前項記載のような多量の酸素供給を受けたため後水晶体線維増殖症(以下本症という)に罹患し、両眼を失明したのである。

本症は、約二五年前米国において優秀な保育器を備えた大病院で保育器に収容された未熟児が失明するケースが頻発したことを契機として、以後研究が進められた疾患であり、未熟児の生命保持のため保育器内へ供給される酸素が過剰である場合本症の発生をみるのであって、本症に罹患すると眼球のレンズの後方に線維が付着し、網膜、ガラス体が線維に侵蝕されて失明に至る。

3  被告の責任

(一) 阿部医師の酸素供給過剰

(1) 保育器内に未熟児を収容する最大の目的は一定の温度を保持しつつ個体差に応じて徐々に酸素消費量を減少し外界に適応させることにあるから、酸素の供給は機械的画一的になされるべきではなく酸素供給を必要とする場合に限り必要な量、期間内においてなされるべきである。そして必要性判断の重要な目安は未熟児の呼吸困難及びチアノーゼの全身発生の有無であり、チアノーゼが手足に留まる場合は酸素供給は不必要であるばかりでなく、たとえ酸素濃度が低くても過剰供給となるとされている。

従って、未熟児の看護保育を担当する医師は、単に保育器内の酸素濃度を四〇パーセント以下とするよう留意するのみでは足らず、不必要な酸素供給による本症の発生を防ぐため、保育器内の未熟児のチアノーゼ発生の有無及びその発生状況を注意深く観察し、呼吸困難がない限りチアノーゼの発生が全身に及ぶ場合にのみ酸素供給を行うとともに、チアノーゼが単に手足に残る程度になった場合においても、急激な酸素濃度の変化を避け、徐々に酸素濃度を低下させて供給を中止する措置をとるべき注意義務がある。

このことは、原告武が保育器へ収容されていた昭和四二年八月ないし一〇月当時、既に未熟児の保育に携わる小児科医に充分認識されていた。即ち、別表(一)記載の各文献における論文は、酸素濃度を四〇パーセント以下に抑えるとともに慣例的画一的な酸素供給を戒め、酸素供給期間を最少限度に留めるべきこと、チアノーゼの発生状況を供給の指針とすべきことなどを指摘していたのである。

(2) ところで、原告武は保育器へ収容された時点において口唇部、指趾部に弱いチアノーゼが認められたが、これも昭和四二年九月七日には消失し、生下時体重より相当減量していた体重も再び増加の兆しがみえ、哺乳力は良好であり一般状態も「やや良好」、「睡眠良好」「著変なし」と観察される状態であった。従って阿部医師としては、右時点で従来の酸素供給量毎分一・五リットルを徐々に減少させて早期に供給を停止しその後はチアノーゼ発生の有無及び発生状況を注視すべき義務があったのにこれを怠り、同月二六日に至って供給量を毎分一リットルに減少させたのみで日々順調に成育する原告武の症状に応じた適宜の措置を講じないまま漫然と五五日もの長期間にわたり過剰に酸素供給を続けた過失により、本症の発生を招来し、原告武を失明するに至らせたものである。

(二) 阿部医師の眼科的管理の懈怠

(1) 本症は発病初期(オーエンスの分類による一、二期)の段階であれば適正な酸素濃度を保つとともにビタミンD、E、副腎皮質ホルモン剤、蛋白同化ホルモン剤等を投与することにより、弱視に陥ることはあっても失明に至ることは阻止しうるが、更に病状が進行して瘢痕期(右分類による四、五期)に至ると治療方法がないことから、特に早期発見、早期治療が何よりも肝要である。従って、一般に医師としては未熟児を保育器へ収容し酸素を供給する場合においては、本症発生を早期に発見し早期治療を施すため、自ら定期的に未熟児の眼底検査を行うか、または眼科医にこれを依頼して相互の密接な協力連携のもとに未熟児の眼科的管理を行うべき義務がある。

(2) 本症の早期発見、早期治療のための眼底検査の必要性は昭和三〇年頃より論議研究され、特に国立小児病院眼科医長植村恭夫医師(以下植村医師という)は、昭和四〇年六月から昭和四二年八月にかけて別表(二)10、12ないし14の小児科医向け著書、雑誌等において、本症による失明防止のため未熟児の生後間もない頃から可及的すみやかに第一回眼底検査を施行し、爾後定期的に週一回の眼底検査を継続して施行する必要性を繰り返し主張していた。そのほか昭和四二年一〇月当時迄の間に小児科学の教科書、参考書であり小児科医師必読の書である別表(二)16の「現代小児科学大系一五巻」をはじめ同表記載の小児科医向け各文献において定期的眼底検査の必要性が多くの専門家によって指摘されていたのであるから、同年八月ないし一〇月当時を基準とすれば、第一線で実地医療に携わっていた小児科医師の間において定期的眼底検査の必要性が一般的に認識されていたことが明らかである。

そして、左記医療機関では本症に対処するため未熟児の眼科管理が行われ、その実施状況が医学専門雑誌等で紹介されていた。即ち、賛育会病院小児科では昭和二九年二月早産児室入院中の未熟児の眼底検査を行い、東京大学医学部小児科学教室の馬場一雄医師も昭和三二、三年頃同様の検査を行った。

神戸大学医学部付属病院未熟児室は昭和三七年四月より昭和三八年二月迄、弘前大学医学部松本和夫医師は昭和三七年より翌三八年迄当該未熟児入院先小児科医の依頼により、それぞれ未熟児の眼科検診を行った。横浜赤十字病院産婦人科は昭和三六年三月より生後二週間以内の未熟児の眼底検査を行い、九州大学医学部付属病院小児科未熟児室は同年より退院時に未熟児の眼底検査を実施した。更に国立小児病院は昭和四〇年九月から、関西医科大学付属病院未熟児センターは昭和四一年頃から、天理よろづ相談所病院(以下天理病院という)は同年四月開設以来、神戸市立中央市民病院は昭和四二年一〇月前より、いずれも未熟児の定期的眼底検査を行っている。また、大阪市立小児保健センターは昭和四一年四月から本症の診療を行っており、小児科医、産科医からの診療依頼も受けている。

更に、関西医科大学眼科教授塚原勇は、昭和四二年九月二三日大阪市日経ホールにおける第一〇〇回日本小児科学会大阪地方会において「未熟児の網膜症」と題する特別講演を行っているが、前記のとおり同大学は昭和四一年より未熟児の眼科的管理を行っていることから右講演内容も眼科管理の必要性に関するものと推認でき、右講演と期を一にして東京でも全国的規模で本症のシンポジウムが開催されており、本症に対する関心の盛り上りと眼科的管理が実践段階に移行していたことが窺える。また、昭和四一年一〇月二四日発行の毎日新聞に掲載された本症に関する記事は本症が医療問題を越えて社会問題化している現状を報道するとともに眼底検査実施の重要性についても言及している。

以上の諸点から明らかなとおり、小児科未熟児室を有する総合病院の小児科医は、昭和四二年八月ないし一〇月当時保育器収容中の未熟児殊に生下時体重一、八〇〇グラム以下の未熟児について、本症発生の危険性が極めて高く、早期発見、早期治療のためには可及的すみやかに定期的眼底検査を実施する等眼科的管理の必要性が大であることを学会、医学文献、臨床報告等を通じ知悉していたといわなければならない。

(3) のみならず被告病院小児科医長当村秀雄は、前記第一〇〇回日本小児科学会大阪地方分会に演者の一人として出席しており、従って当村医長は勿論同医長を通じて阿部医師も未熟児の眼科的管理の必要性及び実施状況を具体的に知悉していたと推認しうる。

また、原告武の祖母宮武政子は、同人の次女杉田昭子より本症に関する毎日新聞もしくはサンケイ新聞の報道を聞き、同原告の失明を心配して、入院当初より退院時迄度々阿部医師に対し目が見えての命であることを力説し、同原告が本症に罹患し失明することのないよう特に注意して欲しい旨申し入れていた。

(4) 原告武の成育状況は前記のとおりであり、保育器収容当初はともかく、その後は眼底検査に耐えうる状態になっていた。仮にしからずとするも、昭和四二年一〇月一一日保育器より出た時点においては眼底検査をなしえたことは明らかである。従って右いずれかの時期に同原告の眼底検査が行われていたならば、本症発生が早期に発見され、適当な酸素供給を保つとともに、ACTH、副腎皮質ホルモン剤投与等の治療法により失明から救われたと考えられる。

しかるに阿部医師は、前記宮武政子の申し出に対しても大丈夫であると答えるのみで、自ら原告武の眼底検査を行うことなく、また被告病院眼科医にこれを依頼することをも怠った過失により、同原告の発病を早期に発見しえず適切な治療時期を逸した結果、失明に至らせた。

(三) 阿部医師と被告病院眼科医の協力による眼科的管理の懈怠

本症は特に低体重未熟児に多発する眼科領域に属する疾患であるから、未熟児室を擁する病院に勤務する眼科医師は、小児科医の保育管理下にある未熟児とはいえ、本症の専門家として小児科医と連携し小児科医を啓蒙して未熟児の眼科的管理を徹底して行うべき注意義務がある。

植村医師は、昭和四〇年頃より前記小児科医向け著書、雑誌のみならず別表(三)4、7ないし11の眼科医向け文献においても、本症の早期発見、治療による失明防止のため可及的すみやかに週一回の定期的眼底検査を継続して実施する必要性を繰り返し主張しており、また同表の他の文献にも眼科医と小児科医または産科医の連携による未熟児の眼科的管理の必要性が説かれており、前記(二)(2)記載の医療機関においてはこれが実践されていたこと前述のとおりである。

従って、小児科未熟児室を擁する総合病院の小児科医、眼科医は、昭和四二年八月ないし一〇月当時保育器収容中の未熟児について、相互に密接な連携協力の下に定期的眼底検査を実施する等眼科的管理の必要性が大であることを認識していたといわなければならない。

被告病院においては、昭和三五、六年頃より未熟児室を設置し未熟児保育にあたっていたのであるから、同病院勤務の眼科医は、阿部医師と協力して積極的に未熟児保育に参画し眼科的管理を実施して本症発生の防止に努めるべき義務があったのにこれを懈怠した結果、原告武の本症発生を看過し、適切な治療時期を逸して同原告を失明に至らせた。

(四) 被告は、阿部医師及び被告病院眼科勤務医師の使用者として、民法七一五条一項により本件医療事故により原告らが被った損害を賠償すべき義務がある。

(五) なお、被告主張の医学水準と医療水準につき付言する。

医学水準と医療水準は区別されるべきものであるとの被告の主張は強いて争わないが、具体的に両者を判別することは容易ではない。医学上の発見が直ちに医療のあり方を左右する場合や、医学研鑽の熱意が強く早期に医療水準が医学水準に達する場合もあり、また医師の怠惰により医療水準が医学水準を長期に亘って下回る場合もありうるし、医療組織、機構の完備、不備によって医学水準の実践移行の難易が異なる場合もある。もし実践状況の多寡により、あるいはその平均値をとって医療水準を判断するとすれば医学水準よりはるかに低い水準に留まることになり、それは医療法第一条にいう「病院は傷病者が科学的で且つ適正な診療を受けうるよう運営されなければならない。」という同法の精神を空文化するものであり正当ではない。

4  損害

(一) 原告武の逸失利益 一一七二万九、九二〇円

原告武は、本件医療事故により両眼を失明し、労働能力を一〇〇パーセント喪失した。昭和四三年度全産業全男子労働者平均給与額は、定期給与月額五一、二〇〇円、賞与等特別給与年額一四万三、二〇〇円である。同原告の稼働可能期間は満一八才から六三才迄の四五年間であり、右期間内に同原告が得べかりし利益をホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除してその現価を算出すると一一七二万九、九二〇円となる。

算式{(51,200×12)+143,200}×15,483(ホフマン係数)

(二) 原告武の慰藉料 一、〇〇〇万円

原告武は長い人生を暗闇の中で生きてゆかねばならないのであり、本件医療事故により被った精神的苦痛を慰藉するには一、〇〇〇万円をもって相当とするというべきである。

(三) 原告昭、同和子の慰藉料 各三〇〇万円

原告昭、同和子は、初めての男児である原告武を失明させられたのであり、その精神的苦痛は同原告の死にも勝るもので、これを慰藉するにはそれぞれ三〇〇万円をもって相当とするというべきである。

(四) 弁護士費用 原告武につき七〇万円、原告昭、同和子につき各一五万円

原告らは、昭和四三年三月一四日頃から同年五月二〇日頃迄の間、再三被告に対し本件医療事故により原告らに生じた損害の任意の賠償を求めたが、被告がこれに応じなかったため、やむなく原告訴訟代理人らに本訴の提起、遂行を委任し、着手金として原告武は一〇万円、原告昭、同和子は各五万円支払い、更に本件訴訟終結時には報酬として原告武は六〇万円、原告昭、同和子は各一〇万円支払うことを約束した。

5  よって、被告に対し、不法行為による損害賠償金として、原告武は二、二四二万九、九二〇円と内金二〇〇万円に対する本件不法行為後の日である昭和四四年六月一七日から、内金二、〇四二万九、九二〇円に対する昭和四九年六月二〇日から各完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、原告昭、同和子はそれぞれ三一五万円と内金三〇〇万円に対する昭和四四年六月一七日から、内金一五万円に対する昭和四九年六月二〇日から各完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)は認める。

同1(二)(1)のうち原告武を収容していた保育器内へもう一名の未熟児が収容されていたとの点は否認し、その余は認める。

同2(二)(2)のうち原告昭、同和子が阿部医師に視力の特別検査を申し出たことと同医師の返答は否認し、その余は不知。

2  請求原因2のうち原告武が失明していることは認め、病名は不知、失明原因は否認する。

3  請求原因3(一)(1)のうち原告ら主張の注意義務は争う。右注意義務が本件医療事故当時小児科医に充分認識されていたとの点、別表(一)の各文献が原告主張の趣旨であるとの点は否認する。

同3(一)(2)のうち酸素供給期間と流量は認め、右酸素供給と失明との因果関係は否認し、原告ら主張の注意義務は争う。

同3(二)(1)のうち原告ら主張の治療方法は否認し、注意義務は争う。

同3(二)(2)のうち植村医師が原告ら主張の文献で眼底検査の必要性を主張していたこと、国立小児病院、天理病院、関西医科大学付属病院で原告ら主張の頃から本症に対処するため未熟児の眼底検査が行われていたこと、原告ら主張の日時に塚原教授が「未熟児の網膜症」と題する特別講演を行ったこと、東京で本症のシンポジウムが開かれたことは認める。本件医療事故当時小児科医の間で定期的眼底検査の必要性が認識されていたこと、右検査が実践段階に移行していたこと、右三病院を除く原告ら主張の病院で本症の早期発見、治療の目的で眼底検査が行われたことは否認する。

同3(二)(3)のうち当村医長が原告ら主張の学会へ出席したとの点は否認する。

同3(二)(4)のうち眼科的管理が行われなかったことは認め、早期発見により本症の治療が可能であったとの点は否認し、阿部医師の過失は争う。

同3(三)のうち植村医師が原告ら主張の文献で眼底検査の必要性を主張していたこと、原告武の眼科的管理が行われなかったことは認め、本件医療事故当時未熟児の眼科的管理の必要性が小児科医、眼科医に認識されていたとの点は否認し、原告ら主張の被告病院眼科医の過失は争う。

同3(四)のうち被告が阿部医師及び被告病院眼科医の使用者であることは認め、損害賠償義務は争う。

同3(五)の主張は争う。

4  請求原因4の損害額は争う。

三  被告の反論

1  原告武の成育経過

原告武は、昭和四二年八月一七日午前一〇時三七分垣田産婦人科において出生したが、生下時体重一、六二〇グラムのいわゆる未熟児であったため、同日被告病院小児科未熟児室へ入院し、阿部医師が担当主治医として看護保育にあたることになった。未熟度の高い未熟児の場合は、呼吸障害、低体温等の症状があり外界への適応能力が欠如しているため、保育器へ収容して温度、湿度、酸素濃度を調整し、併せて感染を防止し栄養に留意して生命の保持に努めるのが未熟児保育の原則である。同原告は、生下時体重からみても未熟度が高く、且つ症状が極めて不良で外界への適応能力を欠いていたので、阿部医師は、直ちに同原告を温度摂氏三二度、湿度九〇パーセントに調節した保育器内へ収容し、毎分一・五リットルの酸素を供給して同原告の生命保持に努めた。

原告武は、入院後約二〇日間はチアノーゼが認められ一般状態が極めて不良で生命の安否が気遣われ、入院後約四〇日間は低体温が続いて生命の危険が去らなかったが、被告病院側の看護努力もあって、その後次第に一般状態が良好になった。そこで、阿部医師は、同年九月一二日からは保育器内の温度を摂氏三〇度、湿度を八〇パーセントに低減し、同月二六日からは酸素流量を毎分一リットルに低減して外界への馴化に備え、同年一〇月一一日入院後五六日目に同原告を保育器内から新生児室へ移した。

原告武の右のような成育状況からして、生後五五日目迄同原告を保育器へ収容し右量の酸素を供給することは生命保持のため必須であった。

2  本症の原因について

本症は酸素の供給過剰によっても起ると言われているが、本症の原因としては他にビタミンA及びEの欠乏、人工乳に基く電解質の不均衡、輸血等種々の見解があり、また現在低酸素環境下においても本症が発生しており酸素の供給を受けていない未熟児に本症が発生することもあり、酸素の供給過剰が本症の唯一の原因ではない。本件医療事故が右のいずれに起因するかは明らかでない。

3  被告の責任について

(一) 医療事故が発生した場合、当該医師の過失の有無を判断する前提となるのは当時の医療水準である。ところで、学問としての医学水準と実施医療の水準は厳に区別されなければならない。医学上一の問題が提起された場合、これを契機として医学界において研究、討議が重ねられ、ある程度の見解がまとまる段階に至ると当該問題に関する医学水準が形成されることになるが、医学水準となった知識、技術が実地医療の水準になるには、更に臨床経験の集積により実地医家の間に一般普遍化される過程が必要である。従って実地医療の水準が医学水準よりかなり遅れているのが医学界の実態である。

(二) 保育器内の酸素濃度について

原告武が保育器へ収容されていた昭和四二年当時においては、保育器内の酸素濃度が四〇パーセント以下であれば本症発生の危険はないというのが小児科臨床医の通説的見解であり、徒らに酸素供給に対する不安を持つことは、未熟児の生命を失う危険があることも多くの医学者により指摘されていた。このことは、馬場一雄著「未熟児の保育」に「酸素濃度を四〇パーセント以下に留め極端に長期に亘らぬよう注意すれば、酸素治療は大した危険を伴うものでないと考える。寧ろ失明の危険を虞れて酸素の投与を制限したために貴重な人命を失うことをこそ警戒すべきであると思う。」との記述があり、医学シンポジウム第一六集「未熟児」にもほぼ同旨の記述があること、≪証拠省略≫にいずれも酸素濃度は四〇パーセント以下にすべき旨の記述があることからも明らかである。

保育器内の酸素濃度が四〇パーセント以下であっても本症発生の危険が皆無ではないことが一般的に認識されるようになったのは、本件医療事故が発生したかなり後になってからである。昭和四三年の未熟児新生児研究会での報告抄録には右趣旨の記載があるが、一方我国小児科学の権威である東京大学医学部教授高津忠夫の監修にかかり、小児科医の多くが依拠している「小児科治療指針」の昭和四四年改訂第六版には酸素濃度三〇パーセント以下(呼吸窮迫の場合は四〇パーセント以下)に留めるよう記述されており、右は当時の本症に対する認識の水準を示すものである。

原告武を収容した保育器へ供給した酸素は、前述のとおり当初毎分一・五リットル、後に一リットルであり、これに対応して保育器内の酸素濃度の測定値は概ね二五ないし二三パーセントにすぎなかった。よって阿部医師は昭和四二年当時の医療水準によれば全くの安全値とされていた量の酸素を供給していたのであり酸素供給量を誤った過失はない。

(三) 眼科的管理について

(1) 昭和四二・三年当時迄わが国においては本症の早期発見、治療を目的とした未熟児の眼底検査はほとんど行われていなかった。

本症の早期発見、治療のため未熟児の定期的眼底検査の必要性を最初に主張したのは植村医師である。同医師は、右のようなわが国の現状を憂慮し、一般医師への警告として昭和四〇年から四二年にかけて発表した一連の論文等により眼底検査の必要性を主張していたのである。従って、同医師は、いわばパイオニアともいうべき人であり、このことは本症の治療法の一つである光凝固法の創始者天理病院の永田誠医師ですら、「眼科」一〇刊一〇号において、植村医師の昭和四〇年から四二年にかけての一連の論文に啓発されたと述べていること及び、昭和四〇年発行「小児科学」第二版に本症の治療法として六〇ないし七〇パーセントの酸素環境下での養育、栄養の向上、ビタミンD、E、アルファアセテート、アクスの投与と記載されていることから窺える知識程度からも明らかである。植村医師は、右一連の論文に引続いて昭和四三年九月発行「眼科」、同年一一月発行「産婦人科の実際」においても、現況は眼科医、小児科医、産科医ともに本症に対する認識が低いと述べたうえで眼科的管理の必要性を強調しており、右事実から、昭和四三年当時も未熟児の眼科的管理が臨床上広く実施されるに至っていなかったこと及び本症に対するわが国の医療水準の遅れが窺えるのである。

眼科医にとってさえ、未熟児の眼底の判定は特殊な訓練を要する困難な作業である。昭和四二年当時大学医学部付属病院を含む未熟児保育設備を有する京阪神の病院においても、最も進んだ病院でようやく眼底検査が実施され始めたばかりで殆んどの病院においては未だ実施されていなかった。原告主張の国立小児病院、天理病院、関西医科大学付属病院は、いずれも眼科的管理において最も進んでいた病院であり、これらごく一部の先駆的病院で実践されていたからといって直ちにそれが医師一般の注意義務の内容となるものではない。原告引用の≪証拠省略≫記載の眼底検査は、いずれも未熟児の眼症状研究の一環として行われたもの、本症の診断のための眼底検査(本症は眼以外に特別の症状はないので当然のことである。)などであって本症の早期発見、治療の目的で行われ、または主張されているものではないことは右各論文自体から明らかである。

従って、昭和四二年八月ないし一〇月当時は未熟児の眼科的管理は小児科医及び眼科医の注意義務の内容として定着していなかったのであり、阿部医師及び被告病院眼科医に過失はない。

(2) 原告武の成育状況は前記(一)のとおりで生後五五日目迄は保育器へ収容して厳重な環境調整を必要としたのであり、仮に眼底検査を実施して本症を発見しえたとしても生命の危険を防止するための必須の処置である酸素の供給を中止することは到底できなかった。また本症は自然治癒が多く、原告ら主張の副腎皮質ホルモン等の治療法の有効性も確定的なものではないのであり、眼底検査の実施は本症による失明を防止するものでなかった。

第三証拠≪省略≫

理由

一  本件医療事故発生に至る経過

請求原因1(一)の事実及び同1(二)(1)のうち原告武が他の未熟児とともに一台の保育器に収容されていたとの点を除くその余の事実は当事者間に争いがなく、右事実に≪証拠省略≫によると次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  原告武は、昭和四二年八月一七日午前一〇時三七分、豊中市庄内東町二丁目二番地三、垣田産婦人科において、在胎八ヶ月(分娩予定日同年一一月一日)、生下時体重一、六二〇グラムのいわゆる未熟児として出生し、同日午後二時被告病院小児科へ入院し、直ちに未熟児室内の保育器へ収容され、以後担当主治医阿部医師の看護保育を受けることになった。

2  入院時の原告武は、呼吸、脈搏は整っていたものの、運動が不活発で泣声も弱く、皮膚の色は全身紅潮で皮下脂肪が少なく、四肢末端に冷感があり、特に心搏が弱く口唇と指趾にはチアノーゼが認められ特発性呼吸障害による生命の危険が予想される状態であったので、阿部医師は、温度摂氏三二度、湿度九〇パーセント、酸素流量一分間一・五リットルに調節した保育器へ同原告を収容し、強心剤、止血剤の投与及び輸液の措置をとった。

同原告は、入院直後から同月二二日頃迄は口唇、耳朶、顔面、四肢等にチアノーゼがあり、その後チアノーゼの程度が軽くなったもののなお同年九月六日頃迄消失せず、入院後、九月二日頃迄は一分間の呼吸数が度々五〇を越え、うち数回は六〇前後に達し(正常値は三五ないし四〇)て浅くなるなど呼吸の乱れが顕著で呼吸障害の症状を如実に示していた。また、入院直後から全身ないし四肢に冷感があったため、入院翌日の八月一八日看護婦が保育器内へ湯たんぽを入れたが、なお同月二八日迄は三三ないし三四度という低体温状態が続き、以後多少上昇して九月一五日頃迄ほぼ三五ないし三六度の状態が続きその頃まで黄疸があった。体重も入院後生下時体重から減少を続け、同月一日には一、二六〇グラム迄落ち込んだが、その後再び増加傾向をたどり同月二五日頃生下時体重を越えるまでに回復し、以後授乳量の増加に伴って体重も順調に増加を続け、同年一〇月一日頃からは授乳方法を鼻注から経口投与に切替えたが哺乳力も良好で、同月一一日には体重約二、三〇〇グラムに成育した。当初に見られた吐乳、冷感、脱力症状も同月一日頃にはほぼおさまり一般状態も右症状の推移に対応して徐々に回復し、被告病院の観察によると入院後九月七日迄は「不良」であったが、翌八日以後は「やや良」、同月二五日以後は「良」と改善されてきた。

阿部医師は、同年九月一二日、原告武の体温が三六度前後に安定し危険状態を一応脱したと判断して保育器内の温度を三〇度、湿度を八〇パーセントにそれぞれ低減させ、更に同月二六日体重が生下時体重を越えた時点で、呼吸も一応安定したと判断して酸素流量を毎分一・五リットルから一リットルに低減させ、なお、わずかな呼吸障害にも対処して脳性麻痺等を予防する目的で酸素の供給を継続しつつ、同原告が外界へ順応できるよう保育環境を徐々に緩和していった。そして、同医師は、同原告の体重が二、三〇〇グラムに達したのを契機として、保育器から新生児室へ移した。

なお、一般に未熟児のみならず新生児は、出生後暫くの間は生下時体重が減少し、その後再び増加傾向をたどるが、未熟児においても、出生後減少した体重が生下時体重迄回復することが以後の順調な発育の一目安になる。

3  原告武が収容されていた保育器は、横巾、高さ各約四〇センチメートル、長さ約八〇センチメートルのアイデアル式保育器で、側面に四ヶ所の処置窓、上方一ヶ所に操作窓があり、下方に四ないし五の通気窓が設けられていた。

被告病院未熟児室は昭和三五年に開設され、本件医療事故当時七台の保育器が設置され、小児科医長を除き、主に阿部医師を中心に外二名の常勤小児科医が輪番制で分担して未熟児の保育に当たっており、各未熟児の担当医師は、保持されるべき保育器内の温度、湿度、酸素流量を保育器外面に貼り付けた指示票に記載して、未熟児室勤務の看護婦が一日三回の勤務交替時(午前八時、午後四時、午前零時)毎に備付の測定器でそれぞれ計測して指示どおりの保育環境が保持されているか確認し、更に担当医師も一日三回の回診時にこれを再確認していた。

酸素については、酸素ボンベから各保育器へ酸素を送る中間点の酸素流量計で毎分の流量を測定し、別に酸素濃度計を用いて保育器内の酸素濃度を測定していた。当時被告病院では、保育器内の酸素濃度を平均二五パーセントとして保育に当っており、酸素流量毎分二リットル(酸素濃度約二七パーセント)を最高限度としていた。保育器内の酸素濃度は一日八回の哺乳を始め、注射、おむつ交換、脈搏等の測定等のため処置窓を開閉する回数の如何により変動するが、酸素流量毎分一リットルで二二ないし二三パーセント、毎分一・五リットルで二三ないし二五パーセントとなることが従来の計測から分っていた。原告武を収容していた保育器についても酸素流量に対応する酸素濃度が右数値より高くなるような特別な状況はなかった。

4  原告昭、同和子らは、昭和四三年一月頃から、原告武が生後五ヶ月になるのに未だ目が見える様子のないことに不安を抱き始め、同年三月豊中市庄内西町二丁目二三番二三号木田眼科木田幸男医師、大阪大学医学部付属病院眼科花垣尚子医師、順天堂大学医学部付属順天堂医院野上公子医師らに順次原告武の診察を依頼したが、いずれも本症に羅患し既に失明していると診断された。なお、右診察中大阪大学では両眼の水晶体後面に白色の膜が認められること、順天堂大学では本症の外眼球振盪症が認められる旨診断された。

原告らは原告武の収容された保育器内にその期間中もう一人の未熟児が収容されていた旨主張し、原告室沢昭、同室沢和子はこれに沿う供述をしているが、≪証拠省略≫に照したやすく措信しがたく、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

二  原告武の失明原因

原告武が失明していることは当事者間に争いがないところ、原告らは、原告武は被告病院における酸素療法により本症に羅患し失明したと主張するので、同原告の失明原因及び失明と酸素療法との因果関係につき検討する。

1  本症について

≪証拠省略≫を総合すると次の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(一)  米国のテリー(T.L.Terry)は、一九四二年に未熟児の水晶体後部に灰白色の膜状物を形成する失明例を報告したが、これが本症に関する医学文献上の最初の記述とされている。テリーは、これを後水晶体線維増殖症(Retrolentsl filiaoplasia.RLFと略される。)と名付けた。その後欧米では、未熟児の閉鎖式保育器への収容、六〇パーセント以上の高濃度酸素療法の普及に伴って、一九五〇年から一九五七年にかけて未熟児保育設備が完備し未熟児の生存率の高い都市を中心に本症が急激に増加し、乳幼児失明の最大原因となり社会問題化したため、RLF対策委員会が設置され、本症に関する研究が重ねられた。その結果、未熟児保育の際の酸素療法が原因として指摘され、これに基いて酸素の使用を出来るだけ制限する措置がとられるようになってからは本症の発生が激減した。

わが国は、戦後の未熟児保育の立ち遅れが逆に幸いして一九五〇年代には欧米のような事態には遭遇しなかったが、近年未熟児保育の著しい進歩により従来生存が困難であった生下時体重一、五〇〇グラム以下の低体重未熟児の生存率が向上し、未熟児の最大死亡原因である特発性呼吸器障害症候群等、呼吸障害のある未熟児に対して高濃度の酸素療法が不可欠となったことにより、わが国においても本症の予防対策が急務となってきた。

(二)  生下時体重二、五〇〇グラム以下の出生児はいわゆる未熟児とされているが、本症はほぼ未熟児に限って、しかも保育器に収容することが必要な生下時体重一、九〇〇グラム以下の未熟児に発生し、特に一、五〇〇グラム以下の未熟児に発生率が高いが、必ずしも生下時体重に逆比例する直線関係はみられない。また、在胎週数の短い未熟児、特に在胎三二週以下のものに発生率が高い。

(三)  本症は、多くの場合未熟児の生後三ないし五週間目の時期に発生するが、その前兆として眼底に現われる最初の徴候は網膜血管の収縮である。

それ以後の眼底症状の変化はオーエンス(W.C.Owens)によって活動期五期、回復期、瘢痕期五度に分類され、従来わが国の医師も右分類を用いるものが多い。活動期一期(血管期)は、網膜血管の迂曲怒張が出現し、網膜周辺部に浮腫及び血管の新生が見られる。第二期(網膜期)は、主として周辺部の新生血管の増加とともに同部位に綱膜の滲出性白濁部が出現し、続いて硝子体の混濁が生じ、網膜周辺に限局性の灰白色の隆起が起こり、出血も見られる。第三期(初期増殖期)には網膜の隆起部分の血管から更に血管が発芽し、新生血管が硝子体へ侵入し、網膜周辺部に限局性の網膜剥離が起こる。増殖性病変が全網膜面積の半分に及ぶと第四期(中等度増殖期)に入り、更に第五期(高度増殖期)に至ると、網膜全剥離が生じ、時として眼内に大量出血が起こる。本症の多くの場合は、生後六ヶ月目位の時期に、必ずしも右活動期の全過程を経過することなく活動期の各期から症状の停止、消退した回復期に移り症状の固定した瘢痕期へ移行するが、瘢痕の程度により五段階に分けられる。第一度は、網膜周辺部に不透明な白濁組織小塊を残すのみで、眼底が蒼白となり、血管は狭細で、軽度の色素沈着を示す。第二度は、局部的な網膜剥離があり、網膜周辺の増殖組織の牽引による乳頭の変形が認められる。第三度は網膜に皺襞を形成し周辺部に網膜の裂孔が認められる。第四度は、水晶体後方に部分的に組織塊が形成され、第五度は、水晶体後方全体が網膜を含む線維組織で充満し眼球陥没が生ずる。(本症は右のように活動期の病変に特徴を有するのであり、「後水晶体線維増殖症」の名称は本症の瘢痕期第四、五度の症状に適応するものであるが、活動期、瘢痕期を通じ本症全体を表現する名称として邦訳「未熟児網膜症」が提唱され今日普及している。)

本症は、保育器収容未熟児の五ないし一五パーセントに発生するが自然寛解例が多く、その内約八〇パーセントは活動期の一ないし三期から瘢痕を残さず自然寛解し、治療を要し放置すれば失明する重症例は約三パーセントである。しかし、活動期の進行が進む程自然寛解の割合は低下し、瘢痕を形成するとその重症度に比例して高度の近視、弱視となり、瘢痕期第四、五度となると失明する。本症の合併症として緑内障、白内障、小眼球、眼球振盪、斜視、虹彩癒着が報告されている。

(四)  本症の原因として、古くはビタミンA、Eの欠乏、食餌中の塩分の過剰、大量輸血による網膜浮腫、先天的素因、母胎内での感染、外傷、循環障害等が唱えられたが、その後酸素療法を受けた未熟児に発生した点が注目されて酸素を原因として考えるのが定説となり、その内でも酸素供給過剰による一種の酸素中毒という考え方が主流をなすが、酸素の欠乏や酸素濃度の急激な変化によっても本症が発生するという説もある。

また、従来予防法として保育器内の酸素濃度を四〇パーセント以下に保持し、酸素供給を漸減しながら中止することによって本症の発生は防止しうると考えられていたが、近時は二〇数パーセントで発生した症例が多々報告されており、稀に人工的酸素の供給を受けない未熟児にも発生している。従って、高濃度酸素環境下で発生した本症と低濃度酸素環境下で発生している本症とは発生機序を異にするのではないかという見解もある。

これを要するに、本症の発生原因、病理機序は今日においてもなお研究途上にあり解明され尽してはいないが、いずれにしても、今日酸素が本症発生に重要な関係を有することについては異論がない。胎児の網膜は姙娠四ヶ月頃迄は無血管状態であり、四ヶ月目頃から血管の発育が始まるが、姙娠八ヶ月頃迄は血管が網膜周辺部迄達しておらず、特に鼻側領域と比して耳側領域は広いため周辺部迄血管が発達するのが遅れる。そして、このような不完全な血管発育状態にある網膜は、酸素の供給過剰や血管の閉塞により生ずる酸素不足のいずれにも極めて敏感であり障害を受けやすい、従って本来の在胎期間より早期に出生したため血管が成育途上にある未熟児網膜の特異性が素因となり、酸素が誘因となって本症が発生すると考えられる。

2  本症に関する以上のような医学上及び臨床上の知見を前提として、前記一で認定した原告武の生下時体重、被告病院での保育状況、同原告の現症状等本件医療事故発生に至る迄の経過をみると、仮に本症が酸素欠乏を原因として発生する余地があるとしても右事実は本件全証拠によってもこれを認めることができないから、原告武は被告病院未熟児室の保育器に収容されていた期間中に供給を受けた酸素が原因となりこれに同原告の網膜の未熟性とが相俟って本症に罹患した蓋然性が極めて高く、昭和四三年一月頃迄にオーエンスの分類による瘢痕期第四ないし五度の病変を来して失明したものと推認することが出来る。従って右失明と酸素療法の間に因果関係の存在を推定しうる。

三  被告病院の責任

1  前記争いのない事実に≪証拠省略≫を総合すると次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(一)  未熟児に対する酸素療法

新生児は、分娩を境として母胎内の液体環境から胎外の気体環境へと急激な環境変化を体験するが、特に未熟児においては成熟新生児に比して呼吸機能、体温調整機能、消化器機能が劣り、感染に弱い等その生理、代謝、機能すべての面で外界への適応能力が乏しく生活力が脆弱である。右のような生活能力は生下時体重の低い未熟児程欠除しており、従って死亡率も高い。そこで、生下時体重二、〇〇〇グラム以下の未熟児については保育器へ収容し、保育器内の温度、湿度、酸素濃度を未熟児の生活し易い環境になるよう個体差に応じて適宜調整することにより、呼吸を確立し、体温を保持し、感染を防止して生命の保持に努めなければならない。また、チアノーゼは呼吸器疾患、中枢神経系の異状が発生する可能性を示す症状であるが、チアノーゼの出現している未熟児、呼吸障害のある未熟児に対しては、生命保持や脳性麻痺防止のため酸素供給は不可欠の治療法である。

ところが、本症発生の危険が大きい網膜の未熟性の高い低体重未熟児程、全身状態も不良でチアノーゼが発現し呼吸困難に陥りやすい。結局酸素を必要とする未熟児にとっては、視力と脳ないし生命が二律背反の関係に立つと言いうるのであり、酸素の使用制限により未熟児の死亡率が高まっているという統計的観察の発表もある。

かように、未熟児に対して不可欠な酸素療法は常に本症発生の危険性を孕んでいるのであって、正にこの点に本症予防の困難性があり、生命の保持、脳性麻痺の回避を図りつつ本症による失明を防止するためには、その治療法の確立が何よりも重要である。

(二)  酸素濃度

(1) わが国においては、昭和三九年頃迄は、一般小児科医、眼科医の間で、本症は欧米において閉鎖式保育器への収容による六〇ないし八〇パーセント以上の高濃度酸素下の保育により発生した過去の疾患であり酸素投与量の制限により問題がなくなったと考えられ、関心が薄かった。それでも昭和三〇年代には「臨床眼科」、「小児科診療」、「小児科学」等の医学雑誌に散発的に本症の瘢痕期症例の報告が登載され、本症の有力な原因は保育器へ供給する酸素であるから酸素の供給量に注意すべき旨や酸素濃度を四〇パーセント以下とすべき旨の記述もみられた。

(2) 昭和四〇年頃からは、未熟児保育に携わる医師の間において、本症予防のため酸素の供給の量及び期間を必要最少限に留めるべきであること、一応の基準として酸素濃度四〇ないし四五パーセントを最高限度とすべきこと、チアノーゼの消失しない未熟児についてはこの限りでないこと、酸素供給の中止は漸減しつつ徐々に行うことが常識となったと言いうるのであって、日本産科婦人科学会新生児委員会編昭和四一年一一月第一版一刷「新生児学」、昭和四二年一〇月発行「現代小児科学大系」第一五巻、同年一二月発行「産科と婦人科」等をはじめとして、昭和四〇年ないし四二年に出版された本症に関する文献には右趣旨の記述が多かった。

後記のとおり国立小児病院眼科の植村恭夫医師らは、昭和四〇年頃から、本症の発生はなお継続し増加傾向にあると警告し、未熟児の定期的眼底検査の必要性を繰り返し主張し、その後徐々に医学界の注意を喚起させるに至ったのであるが、同医師の昭和四〇年六月号「小児科」、昭和四一年一月発行「小児眼科トピックス」の論文にもベドロッシャン(Bedrossian)の説の引用として、酸素供給量は必要最小限度に制限し、酸素濃度は四〇パーセントを越えないこと、濃度は徐々に減少させることの記述がある。

尤も、昭和四〇年一二月発行「臨床小児科全書」第三巻、昭和四一年四月発行「臨床小児科全書」第一巻には、未熟児の呼吸困難やチアノーゼが消失したら直ちに酸素濃度を漸減し、供給を停止ないしチアノーゼの出現しない最小限の供給とすべきこと、酸素濃度は三〇ないし四〇パーセントに留めることの記述があり、基本的には前記通説的見解と相違はないものの、やや酸素使用について制限的な見解もあった。

(3) ところがその後、植村医師が昭和四二年二月号「臨床眼科」、同年八月号「医療」において未熟児の定期的眼底検査の結果酸素濃度二五ないし四〇パーセントでも本症が発生したこと、酸素不使用例にも本症が発生したことを報告したのをはじめ、昭和四三年九月号「眼科」、同年一〇月発行「日本小児科学会雑誌」、同年同月号「臨床眼科」、昭和四四年一月号「臨床眼科」、昭和四五年二月号「小児、外科、内科」等で従来安全とされていた四〇パーセント以下の酸素濃度でも本症が発生するとの報告が相次いでなされた。

こうした臨床報告と歩調を合わせて、従来の通説より酸素供給の制限を更に一歩進め、酸素濃度四〇パーセント以下の保持のみでは絶対安全とはいえず、酸素供給は未熟児のチアノーゼの発生状況を指標とし、チアノーゼが消失したら酸素濃度を速やかに低下させ、または供給を停止するなど後記定期的眼底検査の実施等と相俟ってよりきめ細かい配慮の下に酸素使用を必要最少限に留めるべき旨の見解が、昭和四二年九月号「小児科診療」、同年一二月発行「治療」四九巻一二号、昭和四三年四月号「産科と婦人科」、同年九月号「眼科」、同年一〇月発行別冊「眼科」等で発表されるに至った。

(三)  本症の治療法

現在、本症の治療法として薬物療法、光凝固法、冷凍療法が用いられている。このうち古くから提唱されていたのは薬物療法で、昭和三九年頃から弘前大学眼科松本和夫医師や植村医師らにより、活動期段階の患者に副腎皮質ホルモン剤、蛋白同化ホルモン剤を投与し治療効果をあげた例が報告されているが、本症は自然寛解例が多いため右薬物療法の有効性には疑問がある。

天理病院眼科の永田誠医師(以下永田医師という)は、本件医療事故発生後の昭和四三年に、従来成人の網膜疾患の治療に用いていた光凝固法を本症の患者に用いて、光を当てて異常増殖を起こした血管末梢部及び網膜を破壊することにより人工的に瘢痕化し増殖性変化の悪循環を断ち切ったところ、頓挫的に病勢が停止しその後の眼球発育に著しい障害は現われていないとして画期的治療効果をあげえたこと、従って、光凝固法の施行により治療時期が適切であるならば非常に高い治療効果をあげ、失明を防止しうる道が拓けたことを報告した。しかし同医師は、同時に右治療法の適用範囲にも限界があり、眼球発育に如何なる影響を及ぼすかは今後の経過観察に俟たねばならないと述べている。このように右治療法は実施されて日が浅く未だ後遺症の有無が確認されておらず今後の研究課題となっている。同医師の報告に注目した他の医療機関でも、昭和四五年頃から光凝固法や同一原理である冷凍療法を用いるようになった。

右各治療法はいずれも本症の初期段階、遅くとも活動期第三期前半迄に実施された場合にのみ有効であり、活動期後期及び瘢痕期の患者に対しては現在有効な治療法がない。従って、本症による失明を予防するためには、何よりも早期に本症発生を発見し、初期段階で治療することが肝要である。

(四)  眼底検査

現在本症の発生を予見ないし早期発見する方法として、眼底検査と網膜細動脈の酸素濃度分圧(PO2)値を測定する方法(PO2値一六〇mmHg以上になると危険といわれる。)があるが、PO2値の測定は技術の熟練と高価な機械を必要とするので、技術及び装置の点で眼底検査の方が医師にとって手近な方法である。

尤も、眼科医は、成人を対象とする眼底検査は当然修得しているべきものであるが、乳児は顔に物を近付けられることを嫌い泣き叫ぶなどするので成人と比して検査の実施に手数がかかり、更に未熟児の眼底の理解、オーエンスの分類による本症の発生時期の判定は臨床経験の少ない医師にとって容易ではなく、実際の症例に当って臨床経験を積むことが必要である。

未熟児の眼底は、出生直後は眼球が未熟なため光を通さず検査し難いが、生下時体重一、五〇〇グラム以上の未熟児は生時一週間程度でにごりがとれ検査が可能となる。眼底検査は、まず検査前にミドリン等の散瞳薬を点眼して散瞳し、介助者の協力を得て乳児の頭部を固定し、小児用開瞼器を用いて開瞼し、倒像検眼鏡を用いて眼底を観察するという方法で行う。

生下時体重二、〇〇〇グラム以上の未熟児の眼底は成熟児と異ならないが、二、〇〇〇グラム未満、とりわけ一、五〇〇グラム以下の未熟児の眼底は、乳頭が蒼白く細長型または腎臓型をしており、動脈血管は狭細で縦方向に走行し、耳側周辺網膜は灰白色または蒼白色を呈し、著明な硝子動脈遺残があるという特有の所見(未熟眼底)を呈する。未熟眼底は本症発生の危険を包含しており、とりわけ未熟度の高い網膜の耳側周辺部に本症の発生が認められやすい。従って、熟練した医師は、第一回の眼底検査の際の眼底所見により本症発生の危険性の有無、程度を判別することが可能で、危険が認められる場合眼底の変化を継続観察し、本症発生を発見した場合も、自然寛解に至るか病変が進行するかを継続観察によって鑑別し、本症の初期に治療を実施することが出来る。従って本症の早期発見、治療のため、生後眼底検査が可能となった時点から少くとも六ヶ月目頃迄週一回程度の定期的眼底検査を実施することが必要である。

(五)  定期的眼底検査の普及度

(1) 本症は未熟児特有の眼疾患であり、小児科ないし産科領域と眼科領域とに重複する疾患であるから、関係各科の協力体制が必要であるが、従来、わが国においては成人については高血圧、糖尿病等にみられる如く内科眼科等各専門分野間の連携がなされていたのに比して、小児疾患に関する各医療分野の協力による総合診断、治療が立ち遅れていたことは否み難い。

昭和三九年頃迄わが国の殆んどの眼科医は、退院後暫くして両親らが視覚反応のないことに気付き来院した未熟児出生児や、就学時の検診で初めて視力不良を指摘され、または眼位異状に気付き斜視の治療のため来院した外来患者の中に本症の瘢痕期の症例を見ていた状況であり、しかも本症に関する文献上の観念的理解しかなく認識が浅いため、網膜芽細胞腫(先天性腫瘍)等と誤診して眼球摘出した例も少なくなかった。

(2) 昭和四〇年一一月、国立小児病院が、各医学専門分野の医師らの協力による小児疾患の総合診療と小児専門医育成を目的として東京都世田谷区太子堂町に設立された。植村医師は、同病院設立と同時に眼科医長に就任して、小児科との連携により初めて本症の活動期症例を観察し、活動期の実態把握のため同病院の保育器に収容されている未熟児の定期的眼底検査を実施した。

同医師は、これに先立ち昭和三九年一〇月号「眼科」においても乳幼児の定期的眼検診の必要性を主張していたが、昭和四〇年六月号「小児科」を初めとして同年から昭和四三年にかけて左記一連の医学雑誌等に論文を発表し、本症は欧米で発生した過去の疾患ではなく、酸素の使用を制限している現在のわが国で依然発生していると指摘し、オーエンスの分類による各期の眼底所見、未熟児の眼底検査の実施方法を説明し、国立小児病院における検査実施状況を報告して、本症の早期発見、治療のため少くとも生後六ヶ月迄週一回未熟児の定期的眼底検査を実施すべきことを提唱した。同医師は、同時に臨床眼科学会、小児眼科医のシンポジウム等においても、小児科、眼科の連携の必要性、定期的眼底検査の必要性を主張し、その後も医学雑誌等で同様の主張を繰り返した。

すなわち、昭和四一年一月発行「小児眼科トピックス」、同年五月号「臨床眼科」、同年第三号「眼科臨床医報」、同年七月号「小児科」、同年一一月号「眼科」、昭和四二年二月号「臨床眼科」、同年八月号「医療」、昭和四三年九月号「眼科」、同年一一月号「産婦人科の実際」がこれである。

「小児科」、「眼科」、「臨床眼科」は、一般臨床小児科医ないし眼科医に購読されている医学雑誌であり、「小児眼科トピックス」は開業医を対象として小児眼科の初歩を教示する目的で書かれたものである。

(3) 植村医師は、前記一連の論文の前文等に記述しているとおり、本症の関心が薄く未熟児の眼科的管理体制の確立していないわが国の現状に対する警告として右一連の論文を発表したもので、同医師の活動によりわが国の一般医師の間に本症の重要性が注目され始めた。

天理病院の永田医師も、右一連の論文に啓発されて本症の重要性に注目したもので、従来の薬物療法に疑問が持たれていたところから本症の治療法として光凝固法を用いることを考え、昭和四二年にわが国で初めて二症例に右療法を用いたところ画期的成果をあげ、更に昭和四四年にも四症例に施行して治療効果をあげた。そこで同医師は、昭和四三年四月号「臨床眼科」に光凝固法による治療例を発表したのを初めとして、同年九月号「眼科」、同年一〇月発行別冊「眼科」、昭和四五年一一月一五日発行「臨床眼科」において同様の治療報告をするとともに、同時に光凝固法の実施は活動期第三期前半を過ぎると治療効果がないので、治療時期を逸さないために未熟児の定期的眼底検査の必要性を強調し、併せて天理病院における検査実施状況を紹介した。昭和四四年頃より、同医師のもとへ他院より本症患者の治療依頼があるようになり、翌四五年頃から関西医科大学付属病院等他の医療機関でも光凝固法を実施するところが現われ、右療法の有効性が追認されるようになった。

また、関西医科大学眼科教授塚原勇は、昭和四二年九月二二日第一〇〇回日本小児科学会大阪地方会において、本症についての特別講演を行っている。

(4) 前記のとおり、国立小児病院は、昭和四〇年一一月開設時より未熟児の眼科的管理を行っており、天理病院でも昭和四一年四月開設後同年八月より本格的に小児科と眼科の連携体制を確立し、小児科医の依頼により原則として生後三週間目から眼科医師による未熟児の定期的眼底検査を行っている。関西医科大学付属病院でも、昭和四二年三月より本格的に眼科医師が週一度未熟児の眼底検査を行う体制を確立し、眼科的管理を行っている。関西医科大学付属病院における検査実施状況は、同大学眼科塚原勇教授により、昭和四四年一月号「臨床眼科」で紹介されている。

右三病院はそれぞれ植村医師、永田医師、塚原勇教授が眼科を担当し、その指導下にあってわが国における本症予防対策に関して最も先進的な水準の病院であった。昭和四二年当時は、未熟児室を擁する大学医学部付属病院においても、その多くは未だ未熟児の定期的眼底検査を実施するに至っておらず、例えば東京大学医学部付属病院においても右検査の実施は昭和四四年九月以降のことであった。

2  以上認定の事実に基き阿部医師及び被告病院眼科医の過失の有無につき判断する。

(一)  医療行為をなした当該医師の過失判断の前提として注意義務の内容をなす結果予見可能性及び結果回避可能性有無の基準となるべきものは、診療当時におけるいわゆる臨床医学の実践としての医療水準である。医学は日々進歩して止まないものであるから、いやしくも患者の生命、健康を管理するという重大な業務に携わる医師としては、その業務の性質に照し、起りうる危険を未然に防止するため、右医療水準に基き実験上必要とされる高度の注意義務を要請されるのは当然であり、単に過去に修得した医療水準のみに安住することは許されず、常に医学の進歩に遅れないよう心掛け次々発行される医学専門雑誌、医学書や時々の各専門医学会等により新らたな知識、医術の吸収に努めるべき義務があるのであって、これを怠りその当時の右医療水準により尽すべき措置を採らずに診療を行えば過失があるものと判断されることとなる。これに対して、当該診療行為後に高められた医療水準を基準とし過去に遡って過失の有無を判断することは出来ない。従ってまた、診療当時一部の先進的な大学、研究所、病院のみにおいて知られていた医学ないし医療水準を基準とすることは妥当でない。要するに、日進月歩の医学の研鑽に努めている通常の医師によって当時認識され、且つ医学界において当時合理性と安全性が是認された臨床医学の水準を以て過失の有無の判断の基準とすべきである。

(二)  酸素の過剰供給について

前記1(二)認定の事実によると、昭和四二年後半には、保育器内の酸素濃度は四〇パーセント以下に保持すべきことが未熟児保育に携わる臨床医の常識となっていたのみならず、夙に「臨床小児科全書」第一巻、第三巻等には呼吸障害やチアノーゼの有無を基準として酸素濃度及び供給停止を決定すべき旨の見解も示され、酸素供給の制限方法にある程度寛厳の差はあるものの、基本的には酸素の使用を必要最少限度に留めるべきことが主張され一般に是認されていたのであるから、当時の臨床医学の水準によれば、未熟児保育に携わる医師は単に保育器内の酸素濃度を四〇パーセント以下に保つのみでは足らず、酸素供給の必要性を決定する重要な要素である当該未熟児の呼吸状態とチアノーゼの発生状況を常時観察し、呼吸が安定しチアノーゼが消失すれば適宜酸素濃度を漸減させ、あるいは供給を停止すべき注意義務があったというべきである。

被告は、昭和四二年当時における実地医療の水準によると、医師として尽すべき注意義務は酸素濃度を四〇パーセント以下に保持することのみであり、これを遵守しておけば医師に過失はないと主張するが、被告援用の各書証は被告主張の趣旨とは解されないから、この点に関する被告の主張は採用しない。

ところで、チアノーゼが消失し呼吸状態が安定化した未熟児に対する酸素供給の方法如何については、前記のとおり酸素使用に対する寛厳の差があり一律には論じ得ないが、制限的な見解によれば、直ちに酸素濃度を漸減し、供給を停止ないしチアノーゼの出現しない最小限の供給とすべきこととされ、更に昭和四二年一二月発行「治療」や本件医療事故後である昭和四三年四月号「産科と婦人科」、同年九月号「眼科」、同年一〇月発行別冊「眼科」の各論文には、チアノーゼの消失に伴い酸素濃度を低減または停止すべき旨の記述がある。しかし右記述自体によって既に明らかなとおりこれらは一般的指針ともいうべきものであり、最終的には臨床医が個体差に即応しつつ適宜調整する外には由ない事柄に属する。即ち、一般に幼弱な未熟児程肺機能も劣り、酸素摂取能力が不十分であると考えられるし、従前の呼吸障害あるいはチアノーゼの程度如何により調整方法も自ら異なることが考えられるのである。従って、チアノーゼが消失し呼吸状態が安定化した未熟児に対し、酸素供給の低減の程度及び停止の時期を如何に決定するかは、右措置の採否による危険性との比較考量において判断されるべきもので、医師の裁量の範囲内である。従って、低濃度の酸素供給を継続するという方法も当時の医療水準に照して合理性を持っていたということができるのである。

本件についてみると、阿部医師は、昭和四二年八月一七日から同年九月二五日迄は酸素濃度二三ないし二五パーセント、翌二六日より同年一〇月一〇日迄は二二ないし二三パーセントの酸素供給を行っているが、原告武は同年九月二日頃呼吸数も一応整い、同月七日頃チアノーゼが消失し、一般状態も「不良」から「やや良」へ好転し、同月一五日頃黄疸が消失し体温も安定したのであるから、一応この時点で酸素供給を停止し以後の推移を観察することも考えられないではないけれども、供給していた酸素量が当初から外界の酸素濃度に近い低酸素濃度であったこと及び同原告は低体重未熟児であって当初から危険な状態が続いていたことなどを考えると、同医師がわずかな呼吸障害にも対処して脳性麻痺等の発症に備えるため、生下時体重に回復した時点で一度酸素濃度を低減し、成熟新生児の生下時体重に近付いた時点で保育器保育を中止した措置は、なお医師の裁量の範囲内であったというべきであり、酸素供給に関し過失があったということはできない。

(三)  眼底検査の懈怠について

原告武の眼底検査が行われなかったことは当事者間に争いがなく、昭和四二年当時は未だ光凝固法や冷凍療法が発表されておらず、昭和三九年頃から報告されていた薬物療法についても有効性には疑問があるが、それでも本症の初期段階において副腎皮質ホルモン剤等の投与により寛解したとする症例の報告もあったこと前述のとおりである。従って、阿部医師または被告病院眼科医師が原告武の定期的眼底検査を行っていれば、早期に本症を発見し薬物療法により失明を免れた可能性も否定出来ないと考えられるので、更に進んで眼底検査を行わなかったことが当時の前記医療水準に照して過失といいうるかどうかにつき検討する。

前記認定の事実によれば、わが国においては昭和三九年頃迄は本症に対する一般医師の関心の薄さに加えて、人的物的設備の不備が相俟って未熟児の眼底検査はほとんど行われていなかったが、昭和四〇年頃から植村医師により定期的眼底検査実施の必要性が強調されるようになり次第に注目を集め始め、昭和四二年には永田医師がわが国で初めて本症の治療方法として光凝固法を用い、同年九月には日本小児科学会大阪地方分会において塚原勇教授による本症の特別講演が行われた。また、当時他の医療機関に先がけて国立小児病院、天理病院、関西医科大学付属病院においては未熟児の定期的眼底検査が実施されるに至った。従って、昭和四二年後半当時は、植村医師により提唱された本症の重大性、眼底検査実施の必要性がようやく他の医師により検証され始め、またこれを受けて治療法の研究も進められ、これらの医師の指導下にある少数の病院で一乃至二年前より定期的眼底検査が実践されていた時期で、いわば先駆的医師らにより本症の研究が広がりと深化をみせ始めた最初の時期であるということができる。そうすると、当時は眼底検査の実施が先進的医療機関の一部でようやく緒についたといえるものの、これによって発見されるにいたる本症に対する有力な治療法と結びついておらず、また医学界において未熟児の眼底検査の必要性、合理性が充分検証され是認されるに至っていなかったのであり、右実情に従来のわが国における小児疾患の総合診療に対する人的物的設備の不備、立遅れ、未熟児の眼底検査の困難性等を勘案すると、当時通常の医師に右検査の実施を期待することはいわば医学の先取りを期待することになり相当でなく、結局、未熟児の眼底検査の実施は通常の小児科医ないし眼科医の注意義務の内容となる迄に至っていなかったというべきである。従って、阿部医師ないし被告病院眼科医師にこの点に関する過失はない。

≪証拠省略≫には眼底検査の実施に関する記述があるが、これらはいずれも論文自体から本症の早期発見、治療を目的とした定期的眼底検査でないことが認められるから、右過失の判断を左右するものではない。

≪証拠省略≫によると、原告武の祖母宮沢和子は同原告が保育器へ収容されていた頃、阿部医師に同原告の失明の心配を訴えていた事実が認められるが、右事実も前記認定当時の医学界の状況に照すと右過失に関する判断を左右するものではなく、更に≪証拠省略≫も同様に右判断を左右するに足らず、他に右判断を覆すに足りる証拠はない。

3  以上の説示によって明らかなとおり、本件医療事故について原告らが阿部医師及び被告病院眼科医の過失として主張する点は、いずれも採用できず、他に阿部医師が原告武に対して採った医療行為及び被告病院眼科医の不作為に過失があったことを認める証拠はない。

四  以上のとおりであるから、原告らの本訴請求はその余の点を判断するまでもなく理由がないからいずれもこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大久保敏雄 裁判官 大藤敏 裁判官 稲葉公子)

<以下省略>

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